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突発小話☆1「花の祠」

『風邪ひきバージョン・その5』から、さらに1年後。と言うことは……

 

 

 夕刻の気の流れ。今日は東から西。迷い込んだ花の香が辺り一面に漂っている。

 東の方角は現竜王様と正妃様が住まわれる東所。しだれの桜花、雪のような夢穂草をはじめ、辺り一面所狭しと咲き乱れる花々。この世の春全てを写し取ったような御庭はまさに盛りを迎え、そこに一歩踏み込めば、まるで違う世界に迷い込んだかのように幻想的だ。

 今退座してきたのは、次期竜王・華楠様のお部屋。その場所から「南所」と言われている。そこから伺えるこの辺りの庭は夏の盛りに賑わいを極める。だから今は、まだ密やかに時を待っている頃だ。

 ……静かだな。

 御館にほど近い場所であるから、いつもならもう少し人通りが多い。夕刻に色々と面倒な作業が重なり、時間が遅くなった。ほとんどの者はもう家に辿り着く頃なのだろう。

 緩やかな坂道、わずかな登り。草履の音を立てながら、彼は家路を急いでいた。


 身軽だった頃なら、春の庭の散策は日課であった。

 表向きは竜王様の御館の侍従の一人という身分ではあるが、何しろ母はお世継ぎとなる方の乳母(めのと)。さらに父も西南の集落では五指に入る裕福な実家を持ち、都にあっては竜王様の覚えめでたい上官。幼き頃から皆が一目置くような環境で育ったためか、いつしか傲慢な振る舞いも当たり前になっていた。御庭の花枝をひと折りするのも、夜に通う女子(おなご)への手みやげであった。

 浮き草のような生活を続けていた頃。それを羨ましいと言われることも多かった。女子には不自由はなく、後腐れのない関係を楽しんで。許されるから、繰り返す。それでも満たされず、荒んでいく心――。

 今では、咲いて散る一時の美しさなどには見向きもしない。それよりももっと、芳しいものを見つけてしまったのだから。去年よりもまた賑やかになった庭。日々の暮らしをささやかに楽しみながら主を待っている人がいる。


「ただいま、霧。今帰ったよ」

 少し開いた戸口からまずは声を掛け、それからそっと押し開けていく。上がり間に身体を滑り込ませた頃には、もう奥の寝所から軽やかな足音が飛び出してきた。

「お帰りなさいまし、若様」

 目の前まで来ると、すっとひざまづいて出迎えの礼を尽くす。家仕事の途中だったのだろう、後ろでくくられた豊かな髪がするりと前に流れてくる。空気よりも重い、ねっとりとした「気」が満ちたこの地では、髪も衣も身体の動きに遅れてたなびく。美しい朱の流れは、今日最後の外の明るさに照らされて輝いていた。

「何も変わったことはないか?」

 昼餉の時には一度戻ってきている。だから、午後のお務めは二刻。でも、必ずそう確認したくなる。このごろようやく袖を通すようになった優美な衣装が重いらしく、なかなか立ち上がれないでいる小さな身体を抱き起こし、頬に軽く口づけた。いきなりの行為に頬を染めるその仕草も可愛らしい。

「や……ぁん、若様っ。おやめ下さい、困りますっ……!」

 片手でしっかりと抱き寄せたまま戯れてみると、腕の中の人は身体をよじりながら訴えた。人の母となり、か細かった身体にも少しばかり肉が付いた。女子は子を一人産み落としたあとが一番妖艶だと言うが、この人の場合もそうなのだろうか。そうとなれば、随分と早咲きの花である。

 ……まあ、もっとも。壊れそうなやわらかな蕾を無理矢理開花させたのは自分なのだが。

「萌(もゆ)はどうした?」

 足を清めて貰うと、返事も待たずにすたすたと奥に進んでいく。あとから、慌てた足音が追いかけてきた。

「ああ、……数刻のうちにも愛らしさを増したようだな。よしよし、父上のお帰りだぞ、……ほら」

 ふんわりとわずかばかりの重みを感じる。大人よりも高い体温が、衣を通り抜けて命の息吹を伝えてくるようだ。さっさと抱き上げると、後ろから小さな悲鳴が上がった。狭霧のものである。

「もうっ……、今、ようやく寝かしつけたというのにっ! ほらぁ、目を覚ましてしまいましたよ」
 ぷうっとふくれて、こちらを見上げる。少し視線をずらすと、同じ色の双の瞳がきょとんと彼を見つめていた。

「駄目です、ご出仕用の衣が汚れてしまいます。まずは着替えてからになさってくださいと、いつも申し上げているではありませんか」

 そのまま春霖は敷物の上にどっかりと腰を下ろしてしまったので、狭霧は彼の身から重ねを剥ぎ取り、家着用の薄ものと取り替えた。座られてしまっては衣の方は脱がせられないので、ひとまず赤子との間に一枚衣を挟み込む。相変わらずてきぱきとした動きで、流れるようにこなしていく。やはりあの父の娘だと思わずにはいられない瞬間だ。

 腕の中の赤子は春霖を一頻り見つめたあと、ふんわりと微笑んだ。とても嬉しそうに。おおそうか、父が戻ったのがそのように嬉しいのか。よいよい、いいこだ……とかすっかり親馬鹿な自分。顔も知らないうちに緩んでしまう。

「本当に……なんて可愛いのだろう。今日も華楠様の姫君様方のお相手をしてきたけれど、おふたりのうちのどちらも萌には敵わないな。今はまだいいけど、やがて外に出せるように育ったら困るだろうな。御館の姫君様よりも美しいなんて、皆からなんと妬まれるのやら……」

 少し大きく揺すってやると、きゃーと嬉しそうに声を立てる。今まで、自分の妹や弟、そしてここにいる妻もその兄弟たちも、赤子の頃から見てきた。だのに、この感動は何だろう。我が子などそれほど欲しいとも思わなかったが、今となればそんな自分の愚かさが嘆かわしいほどだ。

「そのように畏れ多いことを……、おやめくださいまし」
 狭霧はそんな春霖の言葉など気にも留めずに、せっせと自分の仕事をこなしていく。あっという間に衣の手入れを済ませると、窓に覆い布を下ろし、燭台を用意して灯をともす。気づけばとっぷりと暮れていた春の宵が、やわらかなろうそくの明かりに照らし出された。

「夕餉の膳が整いましたので……萌はこちらに。どうぞお召し上がり下さいませ」

 はっとして振り返ると、もうすっかり箸を付けるだけになった夕餉の一揃えがそこにあった。

 赤子が生まれてからは、前にも増して忙しく、何もかも早め早めに段取りを付けて行かなくてはならなくなったと言っていた。そうは言うが、ひとり分の世話が増えたというのに、自分への賄いは何も変わらない。部屋も綺麗に片づいているし、庭に落ち葉もない。

 末恐ろしいばかりの娘だと思う。自分の妻に収まるのはやはり不本意だったのではないだろうか。

 ……それなのに、自分は。頑張っているつもりなのに、失敗ばかりだ。今日戻るのが遅くなったのも、元はと言えば自分の手落ちが原因だった。

「また、お前の父に小言を言われそうだよ。北の集落から来たお偉方を取り違えて、怒らせてしまった。どうも髪の黒い者は同じに見えて……駄目だなあ、本当に」

 思い出すと情けなくて、箸も止まってしまう。悲しいことも口惜しいことも腹立たしいこともたくさんある。それは全て、この居室に帰り着けば癒されるから辛くはない。辛いなどとは言ってられないのだ。この幸せに代わることがどこにある。でも……理想とかけ離れた現実に、時折胸が締め付けられる。

 両親の後ろ盾があったから、御館での職に就けた。また今でも、舅の口利きや妻の心遣いで、人間関係を円滑にしているというのが本当だ。それを妬み半分であれこれ言う人もあるし、過去の醜態を今更ながら掘り起こして、おもしろおかしく吹聴してあざ笑う輩もいる。

 お仕えしている華楠様はお優しい話の分かる方で、春霖を見下したりなど一度もないが、それすらも偽善であるのではないかと思えてくる日もある。

「霧にも……苦労ばかりかけて」

 そう言いかけたとき。それまで黙って子をあやしながら話を聞いていた狭霧が、ふっと顔を上げた。そして揺れる濃緑の瞳でこちらを見据える。まっすぐな汚れのない色は、昔のままだ。いつでも綺麗な心で自分を認めてくれる。

「若様は、頑張っていらっしゃるじゃないですか。すっかりご立派になってと、父もいつも申しておりますよ? あの方はちょっとあまのじゃくですから、面と向かって褒めて差し上げることが出来ないだけんです。それに……私には、誰よりもご立派な殿方ですわ」

「霧……」

 他の者が言えば、何とも見え透いた嘘に思える物言いも、優しい妻の声なら信じられる。にっこり微笑んだ狭霧は静かに立ち上がると、腕の中の赤子をそっとこちらに差し出してきた。

「食後のお茶の支度をして参ります。……少しの間、お願いしますね?」

 まだ、ぼーっとした心地で我が娘を見つめれば、つい今し方見たのと同じ笑顔でこちらを見つめかえしていた。もみじのような小さな手が、すううっと伸びて、頬に触れる。湿っぽい柔らかさが感じ取れた。

「本当に……美しい子だ。霧にそっくりだね、よく言われるでしょう? 天気の良い日は負ぶって、あちらの居室に行くんだろう? 道すがら、よく声を掛けられているのではないか」

 このまま、まっすぐに育って欲しいと思う。この子の母のように。全てを明るい方向に導いてくれる暖かい春でいて欲しい。そして、いつまでも自分を、自分たちを照らしていて欲しい。

「まあ……」
 戸口のところまで進んで、狭霧がくるりと振り返る。

「美しくて、賢そうな子だとよく言われますわ。……でも、それは若様の御子だからでしょう? 本当にそっくりですもの。私はそれが何よりの自慢ですの」

 

 衣擦れの音が通り過ぎても、しばらくはぼんやりとしたままだった。

 つん、と髪を引っ張られてはっと我に返る。一日の疲れに解けかけた一房を握りしめた赤子が、嬉しそうに春霖を見上げていた。

おしまいです(040207)


「ひとこと投票」のリクにお答えして。こんなんですが、宜しいでしょうか。

 

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突発小話☆2「花の祠」

少し時間が戻って、新婚のふたりです。年の瀬のある夜のヒトコマ。

 

 

「……待って。今のところ、もう一度やってご覧?」

 ぱし、と軽く閉じた扇を叩く音がした。ハッとして動きを止める。慣れない足袋が扱いづらく、板間に少し足を取られた。

「だいたい良かったんだけど。ええと、右に扇を持って、半歩下がるところから。そう、ゆっくりゆっくり……」

 初春の宴によく用いられるの『梅香の舞』は幾度となく手合わせをし、全て頭に入っている。狭霧は言われるがままに、ふわりと扇を開き、かざした。

 でもやはり、なかなか自分の動きに集中できない。指先に何とも言えない熱を感じて、その瞬間に手元から扇がこぼれた。慌てて膝をついてそれを拾い上げると、傍らから深い溜息が聞こえた。

「どうしたの。心ここにあらず、と言った感じだね」

 狭霧は腰を落としたままの姿勢で、ゆっくりとそちらを振り向いた。目の前に座している凛としたお姿、揺れる燭台の光にゆらゆらと照らし出されて陰影のくっきりしたお顔がさらにお美しい。今宵は舞の師としての表情になられ、しゃんと伸ばした背筋がしなやかに伸びた若い枝のようにみずみずしく見える。

「でも……」
 言葉を返すのは失礼に当たるかなと思う。だけど、言わずにはいられない。

「若様が……始終こちらを見つめられていらっしゃるから。その……何と申し上げたらいいのか」

 ――もう、恥ずかしくて恥ずかしくて顔が火を吹きそうだ。思わず手のひらを当ててみると、頬がとても熱くなっていた。きっと赤らんでいて、どんなにかみっともないことだろう。こんなにお側にいたら、全て丸見えになっているはず。

「何を言ってるの、稽古を付けてくれる師が欲しいと言ったのは霧の方でしょう」
 そう仰る口元はほころんで、辺りの気をわずかに揺るがす軽い笑い声を上げられた。

「あれやこれやと理由を付けて、新年の挨拶に行くのを取りやめようとするのだから。駄目だよ、今度こそは一緒に連れて帰るからね。里の父上や母上だって、狭霧に会うのをとても楽しみにしているのだから」

 ――そうなのである。こんな風に夕餉の膳を片づけたあとに、お務めでお疲れになった若様を相手に舞のおさらいなどしているのには訳があるのだ。
 こうして共に暮らし始めて半年近くなる。だが、まだ若様の御両親でいらっしゃる雷史様と秋茜様に正式に御挨拶を申し上げてはいなかった。何度となく里に下る話は出たが、やはりまだ畏れ多くて自分の置かれた立場をしっかりと認識するに至らない。それを理由に断り続けていた。

「霧だって、父上や母上のことは良く覚えているでしょう? 小さい頃は随分可愛がって頂いたじゃないか。大丈夫だよ、館の者も領下の民たちも歓迎してくれるから」

 若様は何度も何度もそう繰り返される。どちらかというと気が短くて、すぐに物事に飽きてしまわれるたちでいらっしゃるはず。そんな方が、このことについてはかなりしつこく食い下がってくる。まあ、狭霧の立場としても、いつまでもこのままいられるものではないと承知してはいるが。

 だが……未だに、これでいいのかと不安になるばかりなのだ。

 若様はお里に戻られれば、広大な御領地を任されている立派な地主様の跡目。対して自分は両親が以前その館に仕えていたという臣下の者の娘だ。正妻はおろか、きちんと取り立てて頂く側女(そばめ)になるのも難しい身分なのである。

「そんなことを言ったって、狭霧を妻に望んだのは俺なのだから。難しく考えて、気を揉まなくてもいいのだよ……?」

 ためらい続ける狭霧に、若様はどこまでもお優しい。一緒になってからのこの御方は、以前よりも少しばかり可愛らしくなられたように思えるほどだ。毎夕に草履の音を立てて足早に居室に戻られるお姿を見るたびに、本当に……これがどこまで続く夢なのかと思えてくる。

 もちろん、幼き頃からお慕い申し上げてきた。いつでも若様のお側にいたくて、それだけを望みとしてきたのだ。だが……そうではあっても、願っても決して叶わぬ夢もあると承知していたのに。

「何の後ろ盾もない私です。……みすぼらしく才のない女子だと笑われてしまいます。……そうなったら、若様にも申し訳ございませんし……」

 押し問答の末に、じゃあここはひとつ、館の皆の前で舞を披露しようと言うことになる。でもこんな年の瀬にどこかに習いに行くことも出来ないと言うと、若様自らが夜な夜な稽古を付けて下さると仰った。

「狭霧は何度も竜王様の御前で舞を披露しているし、かなりの腕前だから大丈夫だよ。この頃はそんな華々しいこともご無沙汰だけど、長年培った勘はすぐに戻るから」

 こういう時の段取りだけは早い御方だ。こちらが異を唱える前に、さっさと舞の内容を決め、衣装も揃える。お正月明けの宿下がりの届けもあっという間に出して、里へも文を送った。きびきびと整えられていくお姿はまたご立派で、傍らで見ているだけでうっとりしてしまう。

 だが、やはり……若様に舞を見て頂くのだけはお断りするべきだったと後悔していた。

 もちろん、都にあっても若様は素晴らしい才を多方面に長けていらっしゃり、とくに舞の名手として広く知られている。

 狭霧自身もお披露目の宴でのきらびやかな晴れ姿も幾度となく拝見させて頂いたし、それまでの稽古の時のお姿も知っていた。人には努力次第で行き着ける場所もあると言うが、やはりことに芸の道に関しては生まれ持った才があるとないでは全く違う。若様は誰にも負けないものをお持ちであると狭霧は常々思っていた。

 お育ちが違うのだろうか。若様には何とも言えない艶がある。舞い踊るその指先に輝きが宿っているように見えるのだ。長唄であっても、それは同じこと。遊びにつま弾く琴の音も匂やかな響きがあり、笛の音もまたしかり。書き散らすお手蹟(て)もあでやかな香を放つ。
 お美しい外見に負けず劣らず、内に秘めたものも素晴らしい。ずっとお側に仕えた狭霧は誰よりもそれを承知していた。

 自分の父は武術には優れていると思うが、雅なことに関してはからきしである。父がたぐいまれに見る努力家であるのは知っているから、やはりそうであっても越えられないものがあるのだと分かる。
 いつのことだろう。父が人知れず笛の稽古をしているのを聞いてしまったことがあった。それは当時まだまだあどけない年の頃であった狭霧でも、無言で立ち去るしかない出来映えであったのだ。

 舞の稽古を付けて頂くのにこれ以上の適任者はない、それは分かっている。だけど……。

 若様が、こちらを見つめていらっしゃる。そう思っただけで、身体が上手く動かなくなるのだ。普通にお仕えしていた頃は、自分がものの数にも入らぬ存在であると諦めていた。女子として見られていないことは悲しくもあったが、それを意識しないからこそ容易く接することが出来たのかも知れない。

 でも今は……若様は自分の夫君なのである。身の回りのお世話をして、居住まいを心地よく整えると言うことは変わらないが、見返りとしてその眼差しや優しいお言葉だけではなく、もっと大きく深いものを頂戴してしまう。
 閨でこの身を組み敷く若様は雄々しく力強く……そしてお優しい。甘く身体に降り注ぐその言葉は、皮膚に触れるまでもなく、狭霧を溶かしてしまう。繰り返し繰り返し夢中で求められると、自分がこの世の女子の中で誰よりも幸せな存在であると思えてくるのだ。

 己の身体の中には散ることのない花が咲いている。それが始終若様を求め、我が身を惑わせ苦しめている。

 殿方の眼差しがこんなにも熱いものだとは知らなかった。見つめられると、肌にひりひりと感じ取れるものがある。身体が内側から渇き、何かを強く欲し始める。そんな風に変わってしまった自分が恐ろしく、浅ましく思えて仕方ない。だが、どんなに恥じても吹っ切ることなど出来ない。大きな翼にすっぽりと囚われている己を知る。

「まあ……良い。では、俺が手本になるから、良く見て覚えておくのだよ……?」

 そう仰ると、着崩した家着のままで立ち上がる。そこまではどこから見てもご立派な殿方なのに、次の瞬間、ふっと色が変わる。今、狭霧の目の前に佇むのは、芳しい紅梅の大樹の根元に立つ儚げに美しい花の精であった。

「……春を祝いて、盃を取り……」

 ひんやりとした冬の夜、朗々と伸びやかな声が響く。そして、自らの唄にあわせて扇をかざす。袖の一振り一振りから、花の香が匂い立つようだ。

「……美酒を愛でる宴にあり……」

 軽く顎を引くと、長いまつげが揺れる。こちらにお出でと促されて、狭霧も立ち上がった。目の前にあるのは我が夫である愛おしい御方ではなくて、春を告げる大樹。狭霧にはもう何が真実で何が幻なのかも分からなくなってくる。紅の雪が降りしきる中、扇の向こうにお優しい濃緑の瞳が見えた。

 ああ、……やはりこの御方だと思う。この御方と共に生きていきたい。余りにも素晴らしすぎて臆してしまうことも多いが、どんなに恐ろしいほどの美しさでも、それでも求めずにはいられない。

「お前の舞姿を、たくさんの者たちに披露し自慢したいが……されどそう思う反面で、誰にも見せずに隠し置きたい気もするな……」

 ――招くように歌うように、差し出された腕。

 自らの意を外れて足が歩み出る。肩から晴れ着の重ねが落ち、ほっそりと現れた肩が若様の腕でゆっくりと絡みとられていく。

「さあ、……この先は俺にしか見られない舞を見せておくれ。どんな酒よりも芳しく酔わせて貰おうか……」

 呪文のように耳元に囁かれて、狭霧は花のように頬を染めて微笑むと、うっとりと瞳を閉じた。

 ひとつに重なり合った影が次第に闇に溶けていく。今宵もふたりきりの宴が、終わりのない幕を開けようとしていた……。

 

おしまい(040418)

例のフィルターが本領発揮です(爆笑)。いやあ、このふたりってすごいなあ。
『ひとこと投票』でリクエストして下さったあなたが、読んでくださることを願って……。

 

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突発小話☆3「てのひら&花の祠」

「花の祠」完結から3年余り経過。2歳のお誕生を過ぎてお口が達者になった萌(もゆ)。
じじと父の壮絶な新春バトル? が始まります……どきどき。

 

 

 巷では正月飾りもそろそろ取り外され、普段通りの暮らしが戻ってこようとしている頃。所は都、竜王様の御館にほど近い丘の上の居室では、いささか時期外れの新年の宴が催されていた。

 余市の方は御館の年頭行事であれこれと忙しく立ち働いていたし、それはその妻である柚羽にしても同じこと。対して、春霖たちは西南の実家に里帰りをしていた。もう跡目としての立場はなくなったが、それでも一族の新年を祝うあれこれには借り出される。

 ようやくお互いが一息ついたところで、それでは――と言うことになったわけである。

 


「おお、それでは。ご主人様もお方様も変わらずにお健やかでいらっしゃいましたか……」

 そう言って盃を持つ余市は、いつになく華やかな色目の装束を身につけている。表の侍従長という肩書きに似合わず、この人は若き頃から少しも変わらぬ慎ましやかな暮らしを好んでいた。もちろん公の席につくときにはそれなりに装わなければならないが、こうして娘婿の家を訪れるのにここまで洒落込むことは珍しい。

「まあな。父上もお前たちに会いたがっておられたが、まあ……竜王様にお仕えする身の上ではそうも行かぬしな。俺も華楠様が正式なお立場になられたら、こう軽々しく新年に宿下がりも出来なくなるだろう。よろしく伝えろと申し使って来たぞ」

 こちらは見るからに華やかな顔立ちに似つかわしいきらびやかな装束を嫌みなく着こなしているこの居室の主人。とても舅に対するそれではない態度で、それでも客人に対して形式として酒を勧めている。

 互いに酌み交わすその姿も、厳かに新年を祝っていると言うよりはまるで量を競っているかのようである。酔いが回ってくるごとに、しどけなく着崩れていく晴れ着はそれはそれで色めいて艶やかではあるが、それでも用意してある酒が底を尽きそうになってくるとそう悠長には構えていられない。

 ただですら、和やかなように見えて、ばちばちと見えない火花が散っているようにうかがえてしまうふたりである。上座からは少し離れた位置で、先ほどからどうしたものかと不安げに推移を見守っている母娘がいた。

「困りましたわ、母上。新年と言うことで、このたびは少し上等のお酒をご準備致しましたの。そうなるとどうしても思い切った量が求められなくて……」

 人の妻となって、早いもので三年が過ぎた。とはいえ、小さな野の花のような愛らしさはそのままで、幼い娘を連れて歩いていても知らぬ者には親子とは映らないらしい。つい最近も見知らぬ地方上がりの文官に「妹の世話をして偉いな」などと言われてしまったという。もう少し大人っぽい色目を身に付けたいと思っているらしいが、いかんせん似合わないのだから仕方ない。

「まあ……それは。そうでしょうねえ、いくら竜王様の御館にお仕えして、華楠様の側近としてお務めに励んでいられても……、公人の給金って思うほど出ないし。若様もご結婚前はあの通りだったし、たいした蓄えもなさってないでしょう。あなたもやりくりに大変でしょうね」

 そう答える柚羽の方も、娘に負けず劣らずいつまでも変わらずに若々しい。余市の方が年を重ねるたびに官職に似合った落ち着きを伴ってくるので、初めから実際よりも年の差のある夫婦に見られていたのが尚更ひどくなった。
 こちらなどは、とうとう「表の侍従長のご息女様でいらっしゃいますね?」などと、狭霧と取り違えられてしまったことまである。庭先で洗濯物を干しているときに訪ねてきた客人にそう言われたのであるが、未だ持って余市には内緒にしている。平気な様でいて細かいことをいつまでも気にする夫なので、妻としても気を遣っているらしい。

「ええ……、このたびの帰郷でも、雷史様や秋茜様に大変ご心配を頂きました。こちらはこれからますます物いりなのに、若様はおかしなところで体裁を気になさるから」
 ふう、と、溜息をついて。それからぷっくりとせり出したおなかをさすった。春には二人目の子供が生まれるのだ。安定した時期ではあるが、今回の道中も気を遣ったという。

 侍従ひとりぶんの給金では、どんなにやりくりしても一家を支えるには十分でないと言われている。そのためにこの地で暮らす者たちは、所帯を構えたあとも共働きとなるケースがほとんどなのだ。狭霧の両親である余市と柚羽もずっとそうしてやって来た。
 狭霧にも御館務めをさせることが出来ない訳ではない。親の名も知れている上に、狭霧自身が心映えに優れ、皆から愛されているのだ。もしもこちらが希望すれば、明日からでも職に就けるであろう。ただし、配属に関しては引く手あまたでちょっとしたもめ事になりそうであるが。

 ――しかし、である。

 狭霧自身はあまり自分からは語ろうとはしないが、どうも夫君である春霖の方がこの話に乗り気でないのだ。何しろ彼の狭霧に対する寵愛ぶりには目に余るものがあり、その相手が仕事上の付き合いでしかないと分かっていても、言葉を交わすことすら面白くないらしい。

「まあ、また折を見てこっそりと刺しもののお仕事でも回しましょうね。こちらももう少し工面してあげられればいいのですけど、これくらいのことしか出来なくて」

 柚羽がすまなそうにそう告げると、狭霧は静かに首を横に振った。

「いえいえ、いつもありがとうございます。母上には本当にお世話になりっぱなしで……あら?」

 狭霧がハッとして振り向いたとき、奥の寝所からぱたぱたと小さな足音が響いてきた。

 お昼寝をさせていた萌(もゆ)が目を覚ましたらしい。伸びかけた髪を顔の回りでふわふわと揺らしながら、こぼれそうな愛らしい目でいつもとは様子の違う表の部屋をうかがっている。

 そんな小さな主役のお出ましに、酒宴のまっただ中にあったふたりもそそくさと姿勢を正す。

「お、おお。萌、起きたか。さあさあ、爺の所へ来なさい。久しぶりであるなあ、会いたかったよ」

 先ほどまでの苦虫を噛み潰したような顔はどこにやら。あぐらをかいた膝を叩くと、余市はたいそう機嫌良くお出でお出でと手招きをした。

「ちょ、ちょっと待て! おい、余市! 萌の父である俺を差し置いてそれはないだろうっ!」
 もちろん、春霖の方も負けていない。膝でがつがつと前に出て、両手を広げた。

「萌、まずは父の所に来なさい。ほら、こちらの爺に遠慮することなどないぞ。そうだ、干菓子などもあるぞ、小腹もすいただろうし」

 がさがさがさ。紙包みを開く音に、小さな耳がぴくりと反応する。それを見た途端、余市も動いた。

「なっ……、萌、爺は新しい玩具などを取りそろえてきたぞ。ほら、この太鼓はどうだ。こちらの笛もいい音が出るのだよ。ここに来て、爺と遊ぼうな。そうだ、飾り紐もある。いつものように綺麗な結びを見せてやろう」

 でんでんと太鼓を打ち鳴らしたり、ピーピーと笛を吹いたり。とても落ち着いた物腰でどんなときにも冷静に物事を判断していく「侍従が選んだ憧れの上司・歴代第一位」の姿からは、かけ離れた崩れ方。もしも海底の地に写メールなんてものがあれば、高く売れそうな情報である。

「おっ、おいっ! ちょっと、その騒々しいのはやめろ!」

 これには春霖も慌てた。本気の態度で、舅の行動を制している。

「やめろやめろっ! 何なんだ、その不揃いな太鼓の音は! 調子っ外れな笛の音は! あのなあ、萌には一流の教育を施しているのだ。お前は雅なことはからきしなんだから、少しは身の程をわきまえろっ!」

 いつもなら、ここまでの物言いはしない。だが、ただいまは酒をたんまりと味わっている。どうしても普段は堪えている本音が飛び出てしまうのだ。

「ほ、ほら。だったら、父はひいな遊びをしよう。今から美的感覚を養うのも大切なことだからな、人形であっても色目の美しい装束を着たものを選んでやったぞ。安っぽい玩具など、お呼びでない」

「な、何ですと……! 春霖様、年長者に対する態度がそれでは困ります。あなたはそんな風だから、色々と揉め事を起こすことになるのではないですか。あのですね、そもそも一官僚としては……」

 ――だんだん、話が混迷してきた。

 こんな風に競って「お出でお出で」と言われても、目覚めたばかりの幼子には恐怖にしか映らない。そりゃあ、いつもは優しい祖父であり父である。でも、酒を過ごして頬を赤くした今のふたりは、さながら赤鬼の姿だ。

「……う……」

 大きな濃緑の瞳がうるうるとしている。それでもさらにこちらへと男たちが腕を差し出すので、とうとう彼女はきびすを返すと、ぱたぱたと遠ざかってしまった。

「うわあああああん、……ばばぁ……っ!」

 まっすぐに飛び込む先は言わずと知れている。もちろん穏やかにその時を待っていたやわらかな腕は静かに幼子を抱き留めた。

「はいはい、……もう、仕方のない爺とお父上ですこと。私の可愛い萌を怖がらせないでちょうだい。ほら、大丈夫ですよ、萌。ばばがこちらにおりますからね……」

 やはり柚羽はこういうときに最強である。何しろ、若い頃から雷史様のお子さま方(含:春霖)や竜王様の御子様方を始め、どこに行っても「ちびっ子のアイドル」であったのだから。

「も、萌〜っ……」

 そして、目の前のふたりの殿方も、柚羽には弱い。今まで互いを口汚く罵りあっていたのが急に大人しくなってしまい、しゅんと肩を落としている。それでも祖母の胸にしっかりと抱かれた萌のことは諦めきれないらしい。未練がましく、こちらをうかがっているのだ。

 そんな情けなくも愛おしい男たちを余裕の瞳で眺めると、柚羽はにっこりと微笑んで言った。

「もう、いいじゃありませんか。萌はみんなから愛される存在ですわ。でも、誰を一番にしろなんて、こんな幼子には気の毒です。お二人もそんな風に競い合ったりしないで仲良く萌と遊んであげてくださいませ。……ねえ、萌。萌はじーじも父上もどちらも同じくらい好きですよね……?」

 大好きな祖母に涙を拭って貰い、すっかりご機嫌になった萌は小さな声で「はい」と頷いた。一同はホッと胸をなで下ろす。緊張した面持ちだった狭霧も、母の鮮やかな取りなしにようやく頬をほころばせた。

 

 ――が、しかし。くつろいだ雰囲気の中、微笑みの天使は達者になってきたお口でこう叫んだのだ。

 

「もゆ、みぃんな、だいすき〜っ! でもねえ……いっちばん、すきなの、……たかたんっ!!!」

 これには、また一同が「はあっ!?」と、なってしまう。

「あの……若様。『たかたん』って……どなたですか?」

 しばしの沈黙のあと。誰よりも訳の分からない顔をしていた余市が、思いあまった様子で傍らの娘婿に訊ねた。しかし、春霖の方もよく分かってないらしく、同様に首をかしげている。

「……あのぉ……」

 すると、今まで一番影が薄く、大人しく控えていた狭霧がおずおずと口を開いた。

「雪茜様の一番上のお子様です、鷹見(タカミ)様と仰るの。若様は西南の御館では忙しくお客様のもてなしをしていらっしゃったからあまりご存じないかも知れませんが……鷹見様、今ご実家の山から出ていらして、雷史様の元で学んでいらっしゃるのです。
 お正月で私も皆様のお手伝いに追われていましたので、つい鷹見様に萌のお守りを頼んでしまいまして……鷹見様ももう次のお誕生日で九つになられると言うご立派な方なのですが、とてもお優しくて子供の相手がお上手なんです。萌も夢中で……お別れもたいそう辛かった様子ですわ」

 春霖の祖父である元の御館様すら手を焼いたという姫君の噂は遠く都まで轟いていた。今はすっかり落ち着かれた暮らしぶりだと言われているが……。

「まあ、雪茜様の。あちら様はご結婚がお早かったから、もうお子様がそんなに大きくなられたのですね」

 柚羽も懐かしい名前を聞いて、にこにこしている。春霖のすぐ下の妹に当たる雪茜は幼い頃、柚羽も随分世話をしたのだ。ちょうど今の萌のようなよちよち歩きの姿を容易に思い出すことが出来る。

「ええ。雪茜様の夫君は南峰の血を引く方で、たいそうお美しいとか。ですから、鷹見様は西南の方でありながら、何とも言えない艶やかなお姿をしてらして。目元など、まだまだお子様なのに、胸がときめくほど涼やかですの。萌が夢中になるのも無理はありませんわ、この子も美しいものには目がありませんから。血筋なのでしょうか……」

 何だか、だんだん話題が下世話な侍女たちのうわさ話の方向になっていく。結局、柚羽も狭霧もその辺は都の女子なので、楽しそうだ。

「ほほほ、そうですか。そんなにお美しいお子様ならば、来年は母もご一緒に西南に参りましょうか? 是非、萌の憧れの御方にお目に掛かりたいですわ。ええ、父上などはお一人でも何でもこなしてくださいますもの、平気平気……」

 柚羽がにこにことそんな風に言い出せば、狭霧も嬉しそうに続ける。

「そんな。何も来年までお待ちになることもございませんわ、母上。如何です、夏にでもご一緒致しませんか? ほら、父上と若様はお忙しいからこちらに残って頂いて。女だけで楽しみましょうよ……その頃には産まれている赤子も、雷史様や秋茜様にご覧入れたいですわ……」

 

 まるで姉妹のように見える母娘が、楽しそうに語り合っている傍らで、すっかり会話に置いて行かれた男たちがふたり、すごすごと宴の後片付けなどを始めている。せっかくの美酒の酔いも覚めたらしく、赤らんでいた互いの頬が今では少し白く見えた。

 

おしまい(040517)

ずーっと書きたかった新春バトルです(笑)。まあ、書き上げることが出来たので難しいことはいいとしましょう???

 

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突発小話☆4「匂やかに、白」に続く

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