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『後日談・澄みゆく秋へ』の少し後。ある夜のふたり ……
「との、何をしていらっしゃるのですか……?」 朝晩はかなり冷え込むようになってきた。このように夜も更ければ、ささやかな火鉢だけでは暖を取れず、指先がかじかんでくる。刻限も忘れてひたすらに硯に向かっていた狼駕は、愛しい妻の声を聞いて我に返った。 「夜風が、身体に障ります。気を付けて下さらないと」 以前は館でよく教育された侍女や良家の子女ばかりを相手にしていた。そのためか、どうしても中途半端な言葉遣いが気になってしまう。 ただ今にあっても。何しろ、全てが土間とその奥に続きになっている一間で収まってしまうささやかなねぐらである。夫が机に向かって真剣に取り組んでいるとあれば、妻としても物音を立てることすら気を使い続けていたのだろう。ひたひたと外の風景を照らしている天の光の主もその場所を変え、随分長い間を過ごしていたことに気付く。 「何か、急ぎのお仕事ですか? ……あたしにお手伝い出来ることがあれば、言ってください」 必死に言葉を繋いでいく。最初の頃は妻がこんな風にあれこれ語ることだけで新鮮であった。何しろこの地に流れ着いてからしばらくは、廃人同然で寝付いていたのである。何かを欲しても声にすらならず、もどかしいばかりの毎日であった。 「……いや」 このままいつまでも鈴の転がっていくような美しい音色を聞いていたいと思う。しかしそうするには妻があまりに真剣な表情をしている。狼駕は妻の言葉を遮るように振り返ると、今したためたばかりの半紙を差し出した。 「こちらを、思案していたのであるが」 いくつかの漢字が並んでいる。妻はそれを手にすると、小首をかしげて目で追っていく。やがて、不服そうに呟いた。 「難しい字ばかりで……読めません」 こちらを見上げる翠の瞳は、澄み渡った冬の湖のようだ。たっぷりとした想いをその中に秘めながら、わずかに湖面が揺れる。その美しさが惜しまれて、どうしても短くすることを許せない鶸の髪は腰を過ぎて膝の辺りまで。だから、板間に腰を下ろせば、床に流れ落ちる輝きを堪能することが出来る。 もう、今宵はここまでにしよう。そう思って筆を置いた。 「ふふ、そのようにむくれるな。……こちらにお出で?」 腕を伸ばし、自ら妻を抱き寄せる。しっとりとしたぬくもり。自分ひとりでは冷え切ってしまう寒空も、こうして傍らの人がいれば辛くない。 「この子の名を、色々考えていた。……なかなかに大層なことであって、難しいものだな」 妻の腹は、日に日に目に見えてせり出してくる。何しろ元々が細く頼りない身体であるのだ。とても子を孕むことなど出来ぬように見えるのだが、もう二人目の子を身籠もっている。女子(おなご)とは、何と偉大なるものか。このように、誰から教えられることもなく新しい息吹を生み出すことが出来るのだ。 「……名前、でありますか?」 「この子は、とのの子でしょう? だったら、そんなに難しく考えることもないと思いますけど……」 言いかけた口元を、そっと塞ぐ。季節に関係なくいつも咲き誇る桜色の場所。そっと我が唇を寄せれば、まだ遠い春を思わせる花の香が匂う。一頻り、その甘い語らいに酔った。 「いや、難しく考えてみたいのだ。昼間、村長様から古い漢書などもお借りしてきたのだし、悩む時間もまた楽しいものだ」 子の名前など、以前は思うゆとりもなかった。何と愚かしいことであったのだろう。 領主の館で妻と共に暮らしていた頃は、ただふたりのやりとりにのみ心を奪われていた。あの頃、妻の腹には、今傍らで愛らしい寝息を立てている幼子がすでに宿っていたはず。それにも気付かなかった。 まあ、妻の方も赤子の存在に気付いたのは狼駕と別れた後であったと言う。互いにぼんやりとした夫婦であったことだ。あの頃、ふたりを支えていてくれた聡明な侍女だけが全てを知っていて、良きようにはからってくれたのだ。
「双葉さまが……この子はあたしの子だって。だからあたし、それからはこの子をとのだと思って――」 いつだったか、少し体調が戻ってきた頃。妻が絞り出すように辛かった胸の内を吐き出した。子の母として、気丈に暮らしていたのだとばかり思っていた。それくらい、狼駕の想像を遙かに超えて、妻はしっかりと生きていたように見えたのである。 妻は全ての想いを込めて、生まれてきた赤子に名付けた。たったひとつ、耳が覚えていた言葉。狼駕が繰り返して呼んだ「すず」という言の音を。
「……お前のことだ、男子(おのこ)が産まれたら『ころう』とか名付けたいと言い出すのではないかと思ってな。やはり、今度は俺の仕事にさせておくれ。大きく世の中を見つめる目を持った、立派な子になって欲しいのだ。この願いの全てを託してやりたい……」 こんなふうに言ったら、妻が気を悪くすることは分かっていた。でも、これだけは譲れない。妻は心優しくどこまでも純粋な女子であるが、少し物事を簡単に考えすぎるところがあるのだ。 確かに「こすず」という名はとても可愛らしいし、狼駕も気に入っている。だが、次の子は男子であるような気がしてならない。そうなれば、色々と夢も膨らんでいくのだ。お仕着せの人生ではない、自分なりの道を掴み取るしっかりした心を持って欲しい。「小狼」などと、自分をさらに小さくしたような名では好ましくない。
考え始めると、どんどん深みにはまっていく。何と言うことであろう。人ひとりの名というのはあまりに重い。いくら考えても思い悩んでも、おしまいがないのだ。 自分の名は、領主の跡目としてふさわしいようにと幾人もの易者を募り、決められたのだと聞いている。その頃はまだ狼駕の父は領主ではなかった。よって発言権などはなく、名付けに関わったという話も聞いていない。そのことが父子の間柄を疎遠にしたというのは言い過ぎだろうか。 こうして自由な立場になったことは幸いなのかもしれない。妻とも子ともしっかりした絆を感じることが出来るのだから。
「との……、難しいお顔をなさってる」 拗ねるようなその声は、まるで幼子と取り違えてしまうほどよく似ていて、時々はっとさせられる。こんな風にするとき、妻に頼られていることを強く感じる自分がいた。ようやく元に戻りつつある身体。まだまだ無理は禁物だが、それでも日常の生活には支障がない。有り難いことだ、天地の神々にどれだけ感謝したらいいものだろう。 「あたし、とのの子なら、どんな名でもいいと思うのに。との、たくさん考えると、顔が怖くなるから嫌。お優しいとのの方が、いい」 いきなり胸を直にさすられるような響きにどきりとした。でも次の瞬間、狼駕の口元が柔らかく緩む。抱きしめる腕を少し解き、寝着の胸元に忍び込んだ。 「……そうか」 ぴくりと一瞬、妻の身体が泳ぐ。燃え尽きた燭台の残りの赤で、指先が朱に染まった。何かを必死でたぐり寄せようと、幾重にも折り重なる闇の中をたゆとう。 「すずの好きな『との』はこのようにするのか? ……こちらがいいかな」 支えを失った細木の如く妻はゆらゆらと喘ぎ、崩れ落ちそうになる身体をそれでも狼駕にさらに重ねてくる。 「とのっ……、あまり、……しないで。あたし、分からなくなってしまうから」 乱れていく吐息、汗ばんでいく身体。永久(とわ)の春がここにある。花びらはあとからあとから降り注ぐ、決して絶えることなく。 「何を言う、怖がらずにここまで来なさい。……大丈夫だ、無理はさせぬ。すずのことは俺が一番知っているからな……?」 そう言ってまた口付ける。妻は狼駕の言葉に勇気づけられるように、そっと自分を手放した。細い指が絡みついてくる。熱い血潮の語らいが、どちらからともなく繰り返された。落ちては浮かび、飛ばされては戻る。一瞬の静寂の後、新たなる波が湧き起こって行く。 身重の体にはあまり強い刺激は良くないと言われている。それは互いに承知していた。だが求め合う心はとても理性だけに耐えられるものではない。妻の身体をいたわりながら、いつもより控えめにでもこのような時が持てることは嬉しかった。何より妻に求められているという手応えが、狼駕に新たなる希望を与えてくれる。 何もかも脱ぎ捨てて、何も持たぬふたりに戻るとき。 「あっ、……とのっ、とのっ……!」 ぼんやりと浮かび上がる鶸の輝きの中で、妻がひときわ高く叫び崩れていく。白く波打つ裸体を汗ばんだ腕に抱き留め、余韻に浸る時間が嬉しい。冷めることのない夢も、長く絶え間なく連なれば永遠の時となる。そんな風に続いていけばいい。
――ゆっくりと、歩めばよいのだ。 小さな命に教えられることの多さを、今の狼駕は知っている。きっと己の名のことは生まれ落ちた赤子が知っているに違いない。 緩んだ口元から、ほろりと落ちた甘い息に瞼を開いて。妻が狼駕を見上げて静かに微笑んだ。 おしまいです(040807)
感想は専用BBSかメールにて。サイトBBSには書き込まないように願います。 物語が始まる前、幼稚園児のふたりのお話。何と岩男くん視点です(笑)。 ――うわ、ちっちゃい……! その朝、園長先生と担任の先生に連れられて、教室に入ってきた女の子。一番後ろの席で前の子の影に隠れながら、心の中でそう叫んでいた。 窓の外の風景はようやく春めいてきた今日この頃。年長組の卒園式を半月後に控えて、幼稚園全体が一年の締めくくりを迎えるぴーんとした緊張感に満たされていた。 3月の「おはようブック」はタンポポの花のシール。おひさまと同じ色の花びらを幾重にも重ねたまん丸の花だ。そして教室の前に立っている子も、日だまりのタンポポに負けないくらい可愛いなと思う。きっと他のクラスメイトも同じことを考えていたに違いない。突然現れた見たこともない女の子に教室は騒然としていた。 「今日からこのクラスに新しいお友達が来ました。先日東京から引っ越してきたばかりだそうです、みんな仲良くして色々教えてあげましょうね」 担任の先生はそう言って、黒板に大きくひらがなで女の子の名前らしきものを書いた。でもクラスのみんなはやはりざわざわするだけ。まだひらがなを五十音全部読める子は半分くらいしかいない。一番後ろの席で、彼は一文字一文字を丁寧に辿った。声に出さずに唇を動かしただけだったから、周りの子たちも気付かない。 「まきはら、なかです。なかの『な』はなのはなの『な』です」 それだけ言って、女の子はぴょこんと頭を下げた。くるくるの巻き毛を高い場所でふたつしばりにして、結び目に大きなお花の飾りが付いている。まだ園服が出来上がっていないのか、今日はピンク色のワンピース。エプロンドレスになっていて、裾にはぴっちりとレースがついていた。まるでクラシックバレエの衣装のよう。ひとつひとつがあまりにも彼女に似合っていて驚いてしまう。 すごい……、本当にあんな女の子がいるんだ。 きっとそう思ったのは彼ひとりだけではなかったはず。案の定、朝の会が終わって自由遊びの時間になると、彼女はあっという間にクラス中の子供たちに囲まれてしまった。もちろん、彼はそんな仲間たちと同じ行動を取ることは出来ない。いつものようにスケッチブックとクレヨンを取り出して、絵を描き始めた。 東京への通勤圏として、この頃開けてきた地域。年に何回かはこんな風に転入生がやってくる。それほど珍しいことではないのだ。かくいう彼も、数ヶ月前にここにやってきたばかり。なかなか新しい環境に馴染めず、未だに親しくする友達もいなかった。 ……でも、あの子は違うんだろうな。 クラスの子供たちの目の輝きが自分のときとは全然違っていた。それも当然だと思う、だってあんなにお人形のように可愛いのだから。最初に目がいったのは髪型とか洋服だったけど、そのあとまじまじと見たらとっても綺麗な顔立ちだった。子供の目からみてもすぐに分かる整い方。これはTVのドラマに出てくる子役レベルだと思う。 もちろん彼だって、仲良くなりたくなかった訳ではない。だけど、その姿を見るだけで胸のどきどきが大きくなってどうしようもなくなるのだ。それにクラスの中でも人並み外れて大柄な彼とその正反対にちっちゃい彼女では、整列するときもお教室での席順も近くになることはあり得ない。勇気を出してこちらから声を掛けるなんて、絶対に出来なかった。
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ひと学年がひとクラスしかない小さな幼稚園だったから、顔ぶれはほとんど変わらない。「定員」というのがあるみたいで、年中さんから入ってくる子も数人だ。みんなすぐに馴染んで、ずっと一緒にいる子たちみたいに和気藹々としている。そんな仲間たちを横目で見ながら、なんとなく自分ひとりが浮いているような情けない気分でいっぱいだった。
「どうして岩男くんはおばあちゃんと住んでるの? パパやママはどこに行ったの……?」 ある日、いつものように砂場で遊んでいると、クラスのある女の子からそんな風に訊ねられた。ハッとして、思わず顔を上げる。自分がどんな顔をしているかも分からなかった。すぐに質問に答えれば良かったんだろう、でもそれがなかなか出来ないでいるうちに他の女の子が質問してきた子の園服を引っ張った。 「駄目だよ、あかりちゃん。そんなことは聞くもんじゃありませんって、ママが言ってたよ。カテイノジジョウがあるんだからって」 あっちで遊ぼうと促されて、ふたつの影が去ってしまってから。何とも形容しがたい感情が、胸の奥からふつふつと湧いてきた。 ――カテイノジジョウ……って、どういうことだろう? 元はと言えば、自分がすぐに答えないからいけなかったのだ。でもだからといって、そんなふうに言うこと無いのに。説明すれば大したことじゃない、母さんは病気で死んだんだし父さんは仕事で遠くに住んでいる。ただそれを話したときに相手がどんな反応をするかを考えると面倒になってしまうだけ。 もともとが大人しい性格だったのだろう。様々なことが重なって、さらに彼は臆病になっていた。何かをやって目立てば必ず注目される。そうすれば煩わしいことが色々とくっついて来るのも分かった。仲良しの友達も作らなければいい、そうすれば遊びに誘われたりして気まずい思いをしなくていいんだから。 春の初めに転入してきたあの女の子は、やっぱりいつもたくさんの男の子や女の子に囲まれていた。「菜花」ちゃんという漢字も書けるようになったけど、それを伝えることすら出来なくて。「菜の花」という名前がぴったりの女の子は、彼にとって一番遠い存在だった。
そんな、ある日。 彼は誰もいなくなった園庭で、落とし物を拾った。ひよこ色のつやつやしたリボンで、ふちには細かいレースがびっしりとついている。それが誰のものかはすぐに分かった、今日これが結ばれているのを見たから。 ――菜花ちゃんの、リボン。 あいにく周りに声を掛けられる先生が見当たらなくて、彼はそれをいったんポケットにしまった。そしてそのまま、うっかり忘れてしまう。ようやくその存在を思い出したのは、家に帰ってからだった。 「岩男、お留守番頼めるかしら? おばあちゃん、ちょっと出掛けてくるわ」 でも庭先からそんな声がして、せっかくの勇気もしぼんでしまった。だいたい、彼女の家まで行って、誰が出てくるかも分からない。もしも、嫌な目で見られたらどうしよう。大人は笑顔でいても、心の中にもうひとつの気持ちを隠していたりするから、嫌いだ。 「そう言えば、菜花ちゃん。この前のリボンは見つかったの?」 週明け、園バスの中でそんな声を聞いて、胸がまたドキドキしてきた。土日を挟んでしまったことで、もっと面倒になってしまっている。すぐに渡すことが出来れば良かったのに、こうして時間がたってしまっては、何もかもが億劫になってくる。 「ううん、……パパのお土産だったから残念だけど。だから、残った分はクマさんの首に結んだの」 背もたれの影からちらちら見える髪の毛には、違う色のリボンがちゃんと結ばれていた。園かばんの中で皺を伸ばして綺麗に丸めたリボンが息をひそめている。こうして手にしていても、渡す機会があるだろうか。担任の先生に頼んでもいいけど、もしも変な誤解をされたらどうしよう。上手に説明する自信もないし。 ごちゃごちゃ悩んでいる間に、時間は過ぎていく。こちらから勇気を出して近づかなかったら、彼女とは話す機会も訪れない。あっという間に1週間も2週間も経って、いよいよ言い出しにくい状況になっていた。
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園服姿じゃない彼女を見つけて、何だかドキドキした。祖母に連れられてやってきた、家からちょっと離れた所にあるスーパーマーケット。彼女も家族と一緒に来たのだろうか、でも何だか様子がおかしい。 「……菜花、ちゃん?」 胸の鼓動を抑えながら、必死で名前を呼んだ。そして、顔を上げた彼女を見て、ハッとする。うつむきがちで変だなと思っていたけど……ほっぺが涙でぐしょぐしょになってる。 「あれ……岩男くん?」 彼女の方も、思わぬ相手に出会ったことにびっくりしている様子だった。でも、きっと彼の驚きの方が数段上だったはず。……まさか、名前を覚えていてくれたなんて! そんな、信じられないっ! あまりに舞い上がってしまい、なかなか次の言葉が出て来ないでいると、彼女の方が先に話し出した。 「あのね、パパとママと梨花とお買い物に来たの。……でね、気がついたらみんながいなくなっちゃって。どうしたらいいのか分からなくて困ってたの、……あたし迷子になっちゃったのかな?」 そこまで話したら、また自分の置かれた立場を思い出してしまったんだろう。またしくしくと泣き出してしまった。目の前で女の子が泣き出すなんて、驚きを通り越して途方に暮れてしまう。彼の頭の中はごちゃごちゃになって、ほとんどパニック状態だった。 「え……ええと。ええとね、菜花ちゃんっ……!」 頭の中で渦を巻くぐるぐるとかき分けて、ようやく口を開く。でも慌てていたのですごい大声になってしまって、また恥ずかしくなった。だけど、ここでひるんでいるわけにはいかない、このまま菜花ちゃんが泣いているのはもっと嫌だ。 「このスーパーには迷子案内所があるんだよ。そこに行けば、呼び出しをしてもらえるよ? すぐ上の階なんだけど……案内しようか?」 もちろん彼自身はそこにお世話になったことはない。でも、祖母から何かあったときのためにときちんと教えられていた。父親の携帯番号まできちんと覚えている。 「……ほんと!?」 涙でべとべとな頬のままで、彼女はぱっと笑顔になった。それだけで胸がいっぱいになってしまう、また頭がぐるぐるしてきそうだ。どうにか気を紛らわそうと目をそらすと、また別の事実に気付く。 「あれ、菜花ちゃん。髪の毛のリボンがほどけてるよ?」 お出かけだからだろう、いつも園に来るときに結ぶものよりもずっと幅が広い。お花の模様までついていて、すごく可愛かった。ゴムでしばった上から結ばれていたものが緩んでしまったらしい。彼女も手探りでそれを確認して「本当だー」とか言ってる。 「ええと、……その。結んであげようか?」 そう言ってしまってから、自分でもびっくり。一体、何てことを言い出すんだ。リボンを綺麗に結ぶ方法は祖母から教えて貰って知っている。でも……、こんな女の子の綺麗なリボンをきちんと結ぶ自信なんてないのに。 「ええっ!? 岩男くん、出来るのっ? すごい、すごいっ……!」 そんな風にはしゃがれては、引っ込みがつかない。彼はどうにか自分の胸のどきどきと戦いながら、必死で綺麗な蝶結びを仕上げた。 「わあ、……岩男くんはお絵かきも上手だけど、こういうのも出来るんだね。こういうの、『手先が器用』って言うんでしょ?」 彼女は近くのウインドウに自分の姿を映して、にこにこしている。まだウサギのように泣きはらした真っ赤な目をしているのに、もう全然悲しくなんてないみたいだ。こんな風に誉められて、また胸のどきどきが大きくなってくる。でも、それと同時におなかの奥から奮い立ってくるような勇気も湧いてきた。 ――ああ、今なら言える。やっと、言えるような気がする……! 「あのっ、あのね、菜花ちゃんっ……! これ――」 いつも、いつも、忘れずに持ち歩いていた。いつか、返したかった落とし物。今更こんな風に取り出したら「泥棒した」って思われてしまうかも知れない。でも返さなくちゃ、大切なものなんだから。 「……あれ?」 彼女はいきなり目の前に現れたものにきょとんとした視線を落とす。そして、次の瞬間にまたにっこりと笑ってくれた。 「このリボン、岩男くんが拾ってくれてたの? うわあ、どうもありがとう……!」 嬉しそうな笑顔に、こちらまで胸が熱くなる。こんな風に喜んでもらえるなら、もっと早く返せば良かった。今まで出せなかった勇気が、とても恥ずかしい。 「あのね……、このリボンのかたっぽ、あたしのクマさんがすごく気に入ってるみたいなの。だから、もうこれはいらないかも。今日のお礼に岩男くんにあげるね? ……あっ!」 呆然と立ちすくむ彼を残して、彼女は突然走り出す。そして、少し遠ざかったところで立ち止まってもう一度こちらを振り向いた。 「あそこ、パパたちがいた! 何か探してるみたい、だから私行くね! 本当にありがとう……!」
遠ざかる軽い足音、頭の上で揺れるリボン。……そして、彼の手のひらに残った片方だけのリボン。 きっと彼女は明日になれば、こんな出来事を綺麗さっぱり忘れてしまうんだろう。そして、いつもと同じようにクラスのみんなに囲まれて、にこにこと笑うんだ。でもそれで十分な気がする、いつも彼女が笑顔でいてくれたら嬉しいから。それがたとえ、自分に向けられた特別なものじゃなくても。 物語が始まる、少し前。子供広場のベンチを目指して、彼は歩き出した。 おしまいです(050809) |
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