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その1☆「迷子の8月」寺嶋雄王の場合

 

 

 その朝。

 俺は灼熱砂漠のど真ん中に寝ていた。

 熱い熱い熱い……いや、本当は「気温が高い」時は「暑い」という漢字を当てはめるのが妥当なのだが、この場合は「熱い」でいいのだ。何しろ、身体が煮えたって沸騰してる。血液がぶくぶくと音を立てている気がする。砂のフライパンの上で、俺は焼かれていた。

「うっ……、うわっ!」

 自分の叫び声に驚いて、目が覚める。そう言うこともあるんだなあ。このままだと、本気で「人肉ステーキ」になってしまうと思い、俺はもがいた。どろどろとつかみ所のない気持ち悪い空間。俺はどうにかしてそこから抜け出そうと思った。手足を動かそうとしたが、ぴくりともしない。もがく、と言っても身体をちょっと揺するくらいなんだ。
 どうしたんだろう、俺。何でこんな風になってるんだろっ……! そういや、先日俺の親が写真を送ってきた。どこかの砂ばっかりの荒れ地にふたりが立ってVサインしてる。やめろよな、イマドキそんなポーズ。確か南アメリカにいるはずなのに、どこで撮ったんだこの写真。
 目が開かないから真っ黒な空間で、それでもここは砂漠なんだと認識した。砂漠に寝ころんだことなんてないのに、どうしてそう思うんだろ。

 目を開けて。俺の目の前にあったのは、白っぽい天井だった。クロス張り、とか言うんだよな。ここを借りるときに日和っちゃんが「有害物質を使ってないでしょうね〜」なんてチェックしてたんだ。何でも築何年か経ってる住宅では、今では禁止されている糊とか薬品とかが使われている内装があったりするらしい。一応家庭科教師だもんな、そう言うところもきっちりやってくれる。
 次に気づいたのは、自分がベッドの上でひとり横たわっていることだ。俺たちは新婚さんだったりして、だからベッドもでかいダブルだ。まあ、ここに越してきたときに買ったんだから、その頃は正式には彼女は俺の「奥さん」じゃなかったけど。
 だけどな〜嬉しかったよ。日和っちゃんとは暮らし始めて半年以上経っていたけど、まだちょっと不安だった。プ、プロポーズだってしたし、きちんとご両親にだって挨拶に言った。あのチクチク嫌みを言うばばぁ……じゃなくて、お義母様にもきちんと承諾して頂いたんだ(渋々、だったけど)。
 それでも、まだ心配していた。高校の教師は本採用になると、県下どこにでもぶっ飛ばされるのだ。一応希望も聞いてもらえるが、病気の両親がいるとかやんごとなきことじゃないと通りが悪い。採用されるだけでも万々歳なんだ。
 この不景気、それほどやる気のない奴も、どんどん教師を希望する。安定してるのは公務員だけど、役場関係はコネで何重にも塗り固められている。バレーボールじゃないけど「3枚」とかのガードで臨まないとダメと聞いて仰天した。
 ま、……俺も親戚のコネが多少あったけど。それでも本採用までに2年もかかったもんな。
 どこにでも飛ばしてくださいとは言った。でも、今までの職場からどーんと離れた場所。通えるわけもなく、引っ越す羽目になる。日和っちゃんの実家の近くならまだ良かったが、それを通り越して、さらに山奥になってしまった。
 付いてきてくれるだろうか。それを確認するのが恐かった。結婚……は、してくれるんだろうな? そうだよな。断られなかったもんな。けど、結婚するまでは離れていてもいいとか言われたら……言われたら、どうしよう。俺、生きていけるかな? もう日和ちゃんなしではいられない身体なんだよ。
 びくびくした気持ちを抑えながら、家具売り場に付き合ってもらった。その時に、このベッドを「ふたりならこれくらいの大きさがないとヤバいもんね」と選んでくれたとき、マジで号泣するかと思った。

 ……それは、この際いいんだ。大切なことではあるが、もう日和っちゃんは俺の奥さんなんだし。ちょっとやそっとじゃ離れられないんだからな。今は身軽だけど、もうばんばん仕込んでやるから。そのうちに日和っちゃんにそっくりな可愛〜いベビーが生まれたりして、もう絵に描いたようなファミリーになるんだ。
 それより……なんだ? この熱さは。よくよく辺りを見渡すと、ここは当たり前のアパートの寝室。ベッドだっていつもと変わらないから、砂漠の砂ともフライパンとも違うんだ。だけど、熱い。どうしてだと思って、よくよく確かめると、どうも熱を発していたのは俺自身だった。

 いっ……一体、これはどういうことだっ?!

 いつから「燃える男」になっちまったんだ、俺。いくら、日和っちゃんへの愛が燃えさかっているとは言っても、自分がこんなにひとりで熱くなっていてどうするんだ。盛り上がったところで、日和っちゃんは今夜もいない。昨夜は同僚の先生と飲み明かして寂しさをしのいだが、こうして静まりかえった部屋にひとりでいるのはわびしい。ひとり暮らしなんて慣れていたのに、どうしちまったんだ、俺。
 仕事、行かなくちゃ。今日の練習は午後からだったから、少し遅れたけど……でも変だな、身体が妙に重い。ずっしりして動かない。どうなっちまったんだ。朝は強いはずなのに、あれくらいの酒で、どうにかなるわけもないのに、なんかおかしい。
「日和っちゃ〜〜〜〜んっ……」
 思わず叫んでいた。だけど、しんと静まりかえった壁にむなしく反響するのは俺の声だけ。
 その空虚な気持ちを逆なでするように、窓の外ではガキどもの叫び声がこだましている。ああ、うるさいぞ。そう思ってしまう自分が悲しい。暇なときにはあいつらとキャッチボールをしたり、探検ごっこをしたりする。「親分、親分」となつかれるのも悪くない。
 普段の職場では難しい年代の奴らの相手をしている。大人顔負けの受け答えで、お手本通りのすっきりとした感情コントロールをする。しかも「分かりました」と言いながら、後ろを向いて舌を出す。こっちが分かってないと思っているのかも知れないが、全部お見通しだ。その点、素直なガキたちと付き合うのは楽だ。それなのに……今日はどうしたことだろう、うざいとか思ってしまう俺。もしかして、だいぶ心が荒んでいるのだろうか。

 その時、いきなり俺の携帯が「ポーン」と音を立てた。メールを受信した合図だ。俺も色々ダウンロードしたりして、着メロを変えるんだが、趣味が悪いとか言って、すぐにデフォルトに戻されてしまう。まあ、部活関連の連絡を「火曜サスペンス劇場」のテーマで受けていたのはまずかったか。ジャーンジャンジャーン……と始まるたびに、日和ちゃんびっくりしていたもんな。
 そうかっ! もしや、これはラブコールかも知れないっ!! だって、俺、昨日の晩、飲み屋からメールしたんだから。
「おやすみ、ハニー。愛してるよv」
 だよなあ、やっぱ、こういうのって基本でしょ。それなのに、日和ちゃんは返事をくれなかったから、かなり凹んでいたんだ。おお、そうか、今頃になって。きっとめろめろな言葉を返してくれたに違いないっ……!!

『昨晩からの雨でグランドコンディションが悪く、今日は筋トレにしました。先生はお休みで結構です。たまにはゆっくりしてください』

 ――でんでん、違うじゃん。期待にふくらんだ俺の心は無惨にぺっしゃんこ。
 おいおい、休みなのはいいぞ、だけど、日和っちゃんっ! どうして連絡をくれないんだよ。まさかまさか、あっちで浮気でもしてるんじゃないだろうなっ! 金持ち同士の結婚だって聞いたよな〜しかも新婦のお兄さんはまだ独身で、何だか学生時代は日和ちゃんにしつこく言い寄っていたとか……まさかまさか、そんなっ!! 開放感溢れる旅先でよからぬことにっ……!!!
 ああ、付いていけば良かった、やっぱりひとりで行かせるんじゃなかった。どうして名古屋なんだよ〜東京だったら今から駆けつけてもいいのに、と言うか泊まらないで戻ってこられたのに。
 こんなことを言ったら、また呆れられちまうんだろうか? あの綺麗な目をつり上げて「馬鹿なこと言わないでよっ!」とか言うんだろうなあ。でもさ、日和っちゃんって自分ではあまり自覚ないんだろうけど、かなりの上玉なんだよ。ドレスアップでもして、気合い入れて化粧したりした日には、もう男をぼんぼん釣り上げちゃいそうだ。いや、俺も釣られたひとりだったりするけど。
 あああ、何だか身体がまた重くなってきた。ちょっとベッドからはいずり出ただけなのに、ぞくぞくと寒気がする。もしかして、俺っていきなり不治の病にかかってしまったんだろうか。こんなにだるいのは生まれて初めてかも知れない。日和っちゃん、医者に「残念ですが……ご主人は……」とか言われるのか?! やだぞ、そんなのっ!
 慌てて連絡を取ろうとして、そしてちょっと考える。いや待て、今は披露宴の最中だ。せっかくの宴席に水を差しちゃヤバイだろう。そこでメールに切り替える。『日和ちゃん』――液晶画面にそう浮かんだとき、目の前がぼやけた。ああ、会いたいぞ。どうしてこんなに会いたいんだろう。2日や3日会わないことだって、今まで何回もあったのに、今は日和ちゃんのことしか考えられない。
 こうして念じていると、今にでも彼女がドアを開けて戻ってきそうな気がする。「やだ、どうしたのよ。馬鹿ねえ……」とか言って、うまい飯でも作ってくれるんだ。そうなってくれないかな、そうなったらいいのに。

 ……いやいや。

 そんなのダメだ。だって、日和ちゃんは今回の名古屋行きを本当に楽しみにしていた。俺だって知ってる、彼女は職場でも家でも一生懸命頑張ってる。俺の汚した部屋を片づけて、ついでに洗濯をして。いつでもにこにこと出迎えてくれる背後には、湯気を立てた食卓。あんなに頑張ってくれてるんだから、たまには羽も伸ばしたいだろう。分かってやらなくちゃ。
 いつもいつも悪いな〜って、思ってるんだ。だけど、嬉しいんだよ。日和ちゃんが俺のためにいろいろやってくれること。たまにはブツブツ文句を言ったりもするけど、可愛らしくすねるのもそれはそれはいい感じだ。お返しはベッドの上でばっちりしてると思ってる。あの艶めかしく喘ぐ、白い裸体……。
 ああ、会いたいよ〜。こんなに会いたいのは、きっと俺がかなりヤバイからだ。このままひとめ会えないうちに俺はどうにかなっちまうんじゃないだろうか。身体が内側から溶け出しそうに熱い。頭がどんどん重くなる。熱いのに寒気がする。歯ががちがちと鳴って噛み合わない。会いたいよ、会いたいよっ! 今すぐにでもっ!!
 気が付いたら、送信ボタンを押していた。なんと打ったのか、自分でも全然覚えていなかった。

 一瞬でメールは届くのに、どうして人間は何時間も移動しなくちゃいけないんだろう。こんなに会いたいのに、絶対的な距離がふたりを隔ててる。――ああ、そうかっ! ドラえもんだ! ドラえもんを呼んで、どこでもドアを出してもらおう。そしてすぐに名古屋に行くんだ。日和ちゃんに会うんだっ!
 でもっ……ドラえもんって、どこにいるんだろう。もうろうとし始めた頭の中で、渡辺美里の唄う、底抜けに明るいドラえもんの主題歌が鳴り響く。霞んでいく目の前に無数のドラえもんが飛んでいく。覆い尽くすほどのドラえもん、一面の水色、ドラえもん色……。

 とりあえず、ベッドまで這っていく。何でもない距離なのに、気分は南極探検隊か、雪山登山。ああ、遠い、白い頂……! 吹き荒れる風の中、遠くでドラえもんソング。最後の力を振り絞って這い上がった。意識がだんだん遠のいていく……。
 ようやく布団をかぶったとき、ふんわりと日和ちゃんの匂いがして、また泣けてくる。……どこまで沈んでいくんだろう、もしかして俺、もうダメかも知れない……。そのまま――ずるずると意識が遠のいていった。

おしまいです☆(031211)

このあと「この広い世界の真ん中で」に続きます。情けなさ全開だけど、やっぱいいなあ…。
ここまで身体が火を噴いても寝冷えしたのだと思いつかない男……いきなり「不治の病」に飛ぶ辺りが何ともです。

 

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その2☆「女神サマによろしくっ!」上條聖矢の場合

 

 

 薄目を開けたら、目に飛び込んできたのは天使様だった。

 ――いや、違う。よく見たら、梨花ちゃんだった。だってさ、綺麗な髪の毛の頭のてっぺん回りに丸いわっかが出来ていて。もうそれだけで、天使様の美しさだ。その上、彼女が着ているのは今日の空模様のような真っ白なワンピース。

「大丈夫? 今年の風邪はしつこいって言うから、気を付けていたのにねえ……とうとう捕まっちゃったんだ」
 心配そうに揺れる瞳。ぴっちりと生えそろった長いまつげにここに来るまでにくっつけたんだろう、小さな小さな水の粒が付いている。これ、梨花ちゃんの上に舞い降りたときは真っ白な結晶だったんだろうな。

「う〜、情けないよ、ホント。大切なセンターの直前に」

 梨花ちゃんがこうして来てくれたのは嬉しい。でも、今の俺はあまりの口惜しさで布団をかぶって泣きたいくらいだ。まともに話の出来る状況じゃないんだよ。分かってくれるかなあ。

「あら」

 顔を背けてしまった俺に近づくために姿勢を低くして、かなり危ない迫ってますポーズの彼女はやがてくすくすと笑い声を上げた。何だ、不謹慎な。ひどいぞ、俺が苦しんでいるときに。
 さすがにちょっとムッと来た。だから睨み付けてやろうと思ったのに、彼女と来たら極上の笑顔を浮かべてる。これじゃあ、どうしても顔がふやけてしまうじゃないか。ずるいぞ。

「当日に熱を出すのは困るけど、3日前なら大丈夫よ。暖かくして栄養付けたらすぐに良くなるわ。またレトルト食品が多くなっていたんじゃないの? ダメだよ、食生活をきちんとしないと」

 ぴと。いきなり額が冷たくなる。手にしてみると、それはカップに入った小さなアイスクリームだった。

「それ、食べていて。今、おかゆを作ってあげる。日持ちのするおかずもいくつか作ってきたから、早く良くなってね」
 そう言いながら、彼女はぱぱっとエプロンを付ける。その手際のいいこと、思わず見とれてしまった。

 いいなあ……風邪を引いたら彼女が来て。看病してくれるんだ〜……じゃないよっ、ちょっと待てっ!

「あっ……! あのさあ、梨花ちゃんっ! 気持ちはすごく嬉しいんだけど、ヤバイよ、これっ!」

 そうだよ。俺がセンターだと言うことは、彼女もセンターだと言うことで。だから、こんなところで病人を介抱していていいわけないんだ。それにそれに、俺の風邪、梨花ちゃんにうつしたら、大変だしっ。それこそ、当日にどうにかなっちゃったら、もう、もう、申し訳なくって……!

「う〜ん、どうして? 大丈夫だよ。気にしないで」

 そう言いながら、今度は髪をまとめてる。うひょー、綺麗な襟足っ! ぞくぞくするぅ〜……、って。やばいぞ、ヨコシマだぞ。どうしたんだ、俺。

「もしも、聖矢くんのもらっても、倒れるのは終わってからにするから。それくらいの自己管理は出来るもん、私、本番には強いタイプなんだ」

 それから、もう一度、俺の寝てるベッドの所まで来て。え、あれれ……と思っていたら、いきなり唇が触れ合った。舌の上に乗っけていたアイスがとろんと溶けて喉の奥に流れ込んでいく。

「ほら、もう大丈夫。すぐに良くなるから……」

 うわわわわ。何だかもっと熱が上がりそうなんですけど。どうしたらいいんですか、俺。

 彼女が勝手知ったる台所でかちゃかちゃと料理をしてる間、俺の左手のアイスが、どんどん溶けていく。お鍋から上がる白い湯気、暖かい匂いで満たされる部屋。でも彼女がいることが、俺にとって一番の薬だなと思う。

 一足早く春が来た気がして、窓の外を見たら。さっきよりも吹雪いた風景が、白く煙っていた。

おしまい(031211)

梨花ちゃん視点の完結を前にして、聖矢視点。久々に可愛い彼女を書けて、ラッキー☆

 

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その3☆「片側の未来」槇原千夏の場合

 

 

 「……透?」

 出来るだけ音を立てないように、そっと部屋に入ったのに、ベッドの上に横たわった人が声を掛けてくる。

「菜花は? もう寝たの……?」

 俺が手ぶらなのに気づいたのだろう。腕の中に収まっているはずの愛娘がいないことに、彼女の表情が不安げになる。まるでお気に入りのぬいぐるみをなくした子供のように。必死に起きあがろうとするから、慌てて傍に寄る。

「ああ、良かった。熱、下がったみたいだね」
 元の通りに、横たわらせて、俺はホッと安堵のため息をついた。

「菜花は、リビングに寝かせたから。少しぐずったけど、もう大丈夫だと思う」
 肩に掛けたタオルで生乾きだった髪を拭く。窓のカーテンをきちんと閉め直して振り返ると、彼女はまだこちらを見つめていた。

「ごめんなさい、迷惑をかけちゃって。透だって、疲れてるのに」

 なんと言おうか、言葉を選ぶために唇が何度も空回りする。いつものことだ。俺の些細な顔色や仕草の変化を見て取って、彼女は困ったような泣き出しそうな表情になる。

「謝ることなんてないだろ。……夫婦なんだから」

 ――ギリギリまで、我慢するから。気を遣ったりしないで、もっと我が儘になればいいのに。そう言いたいのをぐっとこらえる。言えば、また彼女を苦しめることになる。それが分かっているから。

 

 夕方。いつものように帰宅すると、彼女の様子がおかしかった。何となく熱っぽくて、とろんとした目をしている。いつからこんなだったのだろう、とっさに思い出せない自分を呪った。

 こちらも12月に入って、やはり飲み会や夜の会合が多くなってくる。営業という職種はやはり人脈がものを言うから、それらをないがしろにすることは出来ないのだ。彼女は以前同じ会社に勤務していたから、そんな内部の事情にも詳しい。ひとことも愚痴や恨み言も言わずに、俺の帰りを待っていてくれる。小さな2歳になる娘とふたりで。

「大丈夫よ、私は菜花がいれば寂しくないから」

 そう言って静かに微笑むのは、俺を安心させるためだと信じたい。もちろん、娘は可愛い。笑うと彼女によく似ているし、小さい身体で精一杯自己主張する様も微笑ましい。だけど……彼女の気持ちがほとんど娘に移ってしまったことに、俺は内心少しだけ苛立ちを覚えていた。

 結婚して、同じ姓になって。それでも彼女はどこか儚げで、いつも自信のなさそうな目をしていた。彼女を幸せにしたくて結婚したんだ。俺の力で、彼女を他の誰よりも幸せにしてやろうと。それなのに、どうしてあんな表情をするんだろう。
 娘が生まれて、そんな彼女にも少しばかりの変化が生まれた。小さな命を育むことで、心の安定を得たらしい。今までに見たことがないほど柔らかい微笑みを浮かべるようになり、顔色も良くなった。親子3人の幸せな生活。どこから見ても満ち足りた生活の中で、それでも俺はどこか物足りなかった。

 ――彼女を、幸せにしているのは娘なのだ。俺ではない。

 大丈夫だからと言われたが、無理矢理ベッドに運んだ。キッチンの棚に風邪薬が置いてある。やはり少し前から具合が悪かったのだ。それなら言ってくれれば、飲み会だって早く切り上げてきたのに。そりゃ、仕事は大切だが、彼女の方がそれよりずっと大切だ。

 娘の世話をしながら、簡単な夕食を作り、それを食べたあとにお風呂にも入れた。もともと、風呂の当番も俺がやっている。彼女の負担を少しでも軽くしたかったから。途中、運んだ夕食のトレイを取りに部屋に入ると、薬が効いたのかぐっすりと寝入っていた。綺麗な輪郭が少しこけているのに気づいて、辛くなる。我慢していたんだな、きっと。

 

「千夏は……そんなに丈夫じゃないんだから、無理は良くないよ。セーターは? 編み上がったんだろ、もう夜更かしもしてないはずだよな」

 10月から、彼女は編み物教室に通っていた。地区の公共センターで行われているもので、託児付きだという。あまり家に籠もっているのも良くないだろうと近所の人に誘われたらしい。

 ただ――ウチの娘はぜんそくの傾向にある。ハウスダストや毛足の長いものは良くない。ラグマットなどもあまり害のないものを使っている。何事にも気にしすぎるタチの彼女は、娘が起きている間は決して毛糸に手を伸ばさなかった。週に一度の講習会までに、言われた部分まで仕上げてこなくてはならなかったが、そのために彼女はいつも夜なべをしていた。
 編んでいたのはローズピンクのセーター。自分用だと言った。かなり凝った編み込み模様で、よく針目を落としてはやり直していた。泣き出しそうな顔をして毛糸を解く彼女の背中は痛々しくて、そっと抱きしめてやりたくなることもしばしばだった。それも……半月ほど前に仕上がったはずだ。

「うっ……うん。あのね、……」

 セーターという単語にぴくりと反応して、彼女はもう一度、身体を起こす。慌てて制しようと思った俺の腕をすり抜けて、足下の向こうにあるチェストにふらふらと歩いていった。

 しばらくして、一抱えほどの包みを手に戻ってきた。それを俺の方に差し出す。

「何?」

 あまりにじっと見つめられて、どうしようかと思った。そりゃ、彼女の視線なら直接突き刺さったっていいと思う。でも――。

「ちょっとだけ、早いんだけど。クリスマスプレゼントなの。受け取ってくれる……?」

 包みを開くと。そこにはチョコレート色のセーターがあった。彼女が自分用に編んでいたのと同じ編み込み……思わず、恥ずかしそうに俯く人の肩を抱いていた。

「実は……私、透のセーターが編みたかったの。編み物なんて、ろくにやったこともなかったんだけど……透って身体大きいけどそんなに太ってないから。大きめのサイズを買うと見頃とかぶかぶかでしょう? 丁度良いサイズのがいいなって、ずっと思ってたの」

 それから、彼女は俺の胸の中で、もう一度「ごめんなさい」と言った。震える細い身体をしっかりと抱きしめる。こんな風に彼女の想いがストレートに伝わってくる感触は初めてかもしれない。

 ――ああ、そうか。

 彼女は……最初からこれが目的で講習会に通ったのだ。内緒で仕上げたくて、きっと夜遅くまで無理をしたのだろう。日中は娘の世話がある。あまり昼寝をしない子だから、彼女が自由になれるのは夜だけだ。きっと……クリスマスまでに仕上げたくて、必死に頑張ってくれたんだろう。

「千夏、……ありがとう」

 そう言って口づける。少し乾いた唇が、うごめく。俺の内側から、止められない欲求が湧き上がってきた。彼女の着ていた服が、いつの間にかベッドの脇に落ちていく。今の俺にとっては柔らかい身体を包む全てのものが煩わしかった。

「あっ、駄目っ! 風邪がうつっちゃうっ……!」

 慌てて逃れようとする身体を押さえつけて、その胸元に唇を寄せる。

「千夏の風邪、俺がもらうから。だから……今は俺のこと受け止めて。いいだろう、……欲しいんだ」

 俺の想いの全てを受け止めてくれる人。永遠の誓約を繰り返すために、最初のキスを色づいた頂に落とした。

なんかよく分からないけど、おしまい(031213)

で……このあと梨花ちゃんを仕込んだと(笑)。病人を襲うのは止めた方がいいと思いますけどねえ。

 

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その4☆「ココロの消費期限」那珂野島原周五郎の場合

 

 

『沙和乃さん、倒れちゃいました』

 そんなメールを受けたのは、社員用のパウダールームだった。3時の休憩を終えて、また仕事場に戻る前。何しろお客様相手の職業だから、メイク直しも重要だ。マスカラの付いたまつげがほっぺに落ちていたりしたら、シャレにならないし。

 メールのフォントなんて、どれも同じなのに。どういう訳か周五郎のものは、のほほんとしている。浮世離れした男だから、仕方ないと言えば仕方ないが。それにしても「倒れちゃいました」って……緊迫感なさ過ぎ。

「ええ〜、なにようっ! どういう事なのよっ!」
 携帯メールだから、簡潔にまとめてね、とは言った。そうしないと、あの男はえんえんと移動時間にメールを打ってるのだ。なかなか会えない立場上、仕方ないが、携帯の画面は小さいので読みにくい。

 だが、これでは何が何だか分からない。

「ああん、もうっ! 馬鹿っ!!!」

 沙和乃は一声叫ぶと、直接ダイヤルする。周五郎にではない、彼の運転手の清宮だ。本当なら、周五郎のことは「側近」である、通称・爺――田所氏が一番良く把握している。でも、アレに連絡を取るのはさすがの沙和乃も未だにオソロシイ。

 2コールですぐに出てくれた清宮から、情報を仕入れる。何でも午後の全体会議のあと、急に目眩を起こしたとか。今日はもう大きな予定は入ってなかったので、とりあえず病院に運んで点滴を打っているとの事だった。大事はないらしい。

「とは、言ってもねえ……」

 婚約者が、倒れた。そう聞いたら、一応駆けつけるのが筋だろう。別に、筋もなにもないんだけど、気が付いたらもう1週間も会ってない。

 3月に入って、年度末のブライダルシーズン突入してしまい、沙和乃の勤務先であるホテルは目の回るような忙しさ。しかも、やることがそれだけではない彼女はホッと一息つく暇もないのだ。この3日は家に辿り着くと12時を回っている。

 ――シンデレラじゃないけど、ぼろぼろだわ。

 仕事疲れの自分を、沙和乃はそう思っていた。

☆☆☆

「ちょっとっ! ……周っ?!」

 大通りから一本入った、狭い道。白塗りの建物に案内された。道が分かりにくいから、お送りしますよと言う清宮の言葉に応じることにする。定時まで仕事して、従業員出入り口から飛び出すと、黒塗りの公用車はちゃんと横付けされていた。

「やあ、沙和乃さん。早いですねえ……さすが清宮。抜け道を使いましたね、ジャスト18分だ」

 頭を向こう側にして、ベッドは縦に置かれている。その一番奥まったところから声がする。ご大層に水嚢をおでこに当てて。なんか原始的だ。よく、漫画とかで出てくる、上からつり下げて額を冷やすアレ。日常生活では、あまりお目に掛からないものだ。

「何よぉ、倒れたんですって?! もう、びっくりしたでしょっ!」

 大股で、傍による。一応、礼儀作法と称して、色々と教えを受けている身ではあるが、悠長にそんなことをやっている場合ではない。

「身体が基本だって、いつも自分が言ってるじゃないのっ! 気を付けなさいよねっ……!」

 そう言いながら、覗き込む。ああ、顔色はあまり悪くない。良かった、と思う。

「倒れちゃいました」の言葉に緊迫感はなかったが、やはり日本有数の総合企業・ナカノ・コーポレーションの次期オーナーだ。こののほほん男も、かなりの激務をこなしていると思う。いくら有能な社員やブレーンはいるとしても、自分が表立って出て行かなくてはならない場が多いという。

……それに。

 現頭取の周四郎氏、つまりは周五郎の祖父に当たる人なのだが、そろそろ第一線からの引退を考えているそうなのだ。

「大丈夫ですよぉ〜」

 にこにこと、無邪気に笑う。こっちはすっごい心配して、ちょっと悪い想像とかもしちゃったのに、何とも脳天気なことだ。まあ、これくらいの神経を持ってないと、仕事量はこなせないのかも知れないが。

「お祖父様が素敵なプレゼントを用意して下さっているんだから。そのためにも、僕、頑張っちゃいます。……楽しみだなあ〜沙和乃さんのウエディングドレス姿、早く見たいです〜!」

「……馬鹿」

 この非常時に、何を言ってるんだ、この男。

 そりゃ、周四郎氏の出した案はすごかった。あの、婚約披露パーティーの席で初めて顔を合わせた沙和乃をいたく気に入った様子で、その場で6月の結婚式を決定してくれた。しかも、その後、2ヶ月間のクルージング旅行までプレゼント。豪華客船の旅に出る。

 まあ、新しい事業の視察がきちんと組み込まれている辺りが、ぬかりないのだが。

 沙和乃の方も寿退職が決まっているわけだが、周五郎の方もその「長期休暇」に向けての色々な仕事がエベレストよりも高く積み重なっているらしい。

 その上、ふたりがデートする事が分かると、周五郎のお祖母様である喜代子様が「家にお出でになってっ!」とうるさい。もちろん、腕の立つ一流シェフの料理に舌鼓は打てるのだが……上流階級な婦人とのやりとりは緊張しまくりだ。この仕事疲れの中で、とてもそれに耐えられる気力がない。

「わあ、きちんと容子さんにトリートメントしてもらってるんですねっ! 一段と髪の艶が美しくなりましたね〜すごい滑らかでいいですよ〜」

 いつの間にか、髪をさわられている。嬉しそうに目を細めて、こちらを見つめる瞳。そこに、ちらっと妖しいものが光った。

 慌てて、部屋を見わたす。ドアの辺りにいたはずの清宮はとっくにどこかに消えていた。何よぉ、すぐに戻るから、待っててくれって言ったのに……。

「ふふ、沙和乃さん」

 いきなり抱き寄せられて。こっちは中腰の姿勢だったから、バランスを崩して倒れ込んでしまう。もちろん、落下現場は周五郎の上だ。

「き、きゃあっ! ちょっと待ってよっ! ……何してるのよっ!!」

 ここは、病院なんでしょっ! 何始めるのよっ……看護婦さんでも来たらどうするのっ! ――そう言いたいのに、口を塞がれてしまう。艶めかしい舌の動き。

「大丈夫ですよ〜僕が呼ぶまで誰も来ませんから。入り口では清宮が見張っていてくれるし……ね、いいでしょう? 久しぶりに沙和乃さんと仲良くしたいなぁ……スキンケアの効果も見たいし。あの特製ボディーローション、きちんと使ってくれてます?」

 さわり、さわり。服の中に進入してくる手のひら。大きく円を描きながら、沙和乃の感じるポイントをきちんと刺激していく。熱い吐息が首筋に落ちて……。

「いや〜、なかなかふたりきりになれないんだもの。僕もいろいろ考えたんですよ〜お祖父様もお祖母様も何だか楽しんでいらっしゃるみたいだし、口惜しくて。今日のことは、清宮との苦肉の策なんですから――」

「えっ……?!」

 沙和乃はハッとした。……ちょっと待て。今なんと言った?! 苦肉の策って――。

「会いたかったですぅ〜、沙和乃さんっ! 今日は僕、思い切り頑張りますからねっ! ……え、だって、僕は病気なんて縁がないですよ〜知ってるでしょ、沙和乃さん。真冬の寒中水泳したって、全然平気だったんだから」

 にっこりと微笑む、不敵の微笑み。天使なのか悪魔なのか、沙和乃には未だに分からない。どこまでが計算されていて、どこまでが素の部分なのかも。

 まんまとはめられた感じで、少なからずむかついてしまう。こうなったら、マグロになって白けさせてやる〜っ! とか思うのに、悲しいかな、沙和乃の「女」の部分は確かに周五郎を求め始めてる。

「あんっ……、やぁっ……!」
 声が出そうになって、慌ててシーツに顔を埋める。ドアの向こうに立ってる人がいるのに、どうしてこんな事が出来るんだ。トップに立つ人間はここまで厚顔無恥になっちゃうのっ?!

 それなのに、腰から膝の辺りがガクガクして、もう待ちきれないって言ってるみたいだ。恥ずかしくてたまらないのに、早く来て欲しいと思う。自分の心が乱れていく。……止められない。

「ふふふ、……大丈夫ですよぉ〜」

 周五郎は嬉しそうに微笑むと、沙和乃の耳元に唇を寄せた。そして、最後の緊張の鎖を解き放つように言う。

「ここ、完全に防音ですから。いくら叫んでも外に声は漏れません♪」

まだまだ続きそうですね、でもおしまいです(031219)

もっときちんとした(?)番外は考えてますから。あくまでもこれはお遊び……もっと書いた方が良かった?

 

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その5☆「てのひらの春」柚羽の場合に続く

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